パラオと日本

1-171 パラオと日本
人生は出会いから創られる。
もし心と心の琴線が触れ合えば、国をも変えることができるかもしれない。

その日は暑かった。

「たかが原住民の分際で生意気な口をきくな。思い上がるのもいい加減にしろ!!」するどい怒声がその建物から聞こえてきた。
熱い日差しが漏れる林の中に建てられているその日本軍の施設の周りにいた兵士たちは聞き耳を立てた。

「我々は誇り高き帝国軍人だ。貴様ら土人と一緒に戦えるか!!」と怒鳴りつけた。

まるで古武士の一喝のようでもあり、真剣そのものだった。
怒鳴りつけられた現地の住民たちは、中川陸軍大佐を睨み返した。
暗い空気が流れた。
しばらくしてパラオ、ベルルュー島の原住民たちは悔し涙を浮かべて去って行った。
中川大佐は見送らなかった。
パラオは日本から3000㎞ほと離れ、フィリピンにほど近くの小さな島である。
1885年にスペインの植民地になってしまった。
スペイン領東インド(Indias Orientales Espanolas)の一部になったが、パラオの原住民の多くが搾取されたり、反抗すれば殺された。
なんとパラオの90%ほどの人口減少になったというから、異常な殺人が日常的に行われたのではないかと推測される。
1899年にはドイツ帝国に売却されたが、その後もパラオの富は搾取され続け、社会的インフラはほとんど進まなかった。

1919年の第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオはドイツに代わって日本の委任統治領になった。

ところが日本人は、スペイン人やドイツ人と違って、現地の電気、水道、学校、病院、道路など社会的基盤の整備など生活に必要なシステムを作り上げていく。
日本人の特徴である極力、差別のない接し方をして、原住民と共に汗を流して街づくりや教育をしていったのである。

原住民は、スペイン人やドイツ人のような搾取が再び始まるかと思って警戒していたのだが、日本人は原住民に対して優しく接して一緒に働こうとしてくるので驚きだっだ。

日本兵と原住民は酒を飲みかわしたり一緒に歌も歌うようになった。
「さらばラバウルよ、また来る日まで、しばし別れの涙がにじむ。恋し懐かしあの島見ればヤシの木陰に十字星、、、、」

しかし、、、。

1941年12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。
1943年6月当時のパラオには日本軍人を除く居住者25026人、朝鮮人2460人、パラオ先住民6474人、他にスペイン人、ドイツ人宣教師18人がいた。
このように当時のパラオには日本人や朝鮮人や現地人たちが共に仲良く生活していたのである。

ところが、大東亜戦争の戦況はパラオにも近づいてきた。
その情報を知ったペルルュー島住民は集会を開き、全員賛成の意を決め、日本軍に申し入れをすることになった。

日本軍の中川州男大佐に対して「アメリカ軍が上陸してきたら、われわれも日本兵と一緒に戦いたい。みんなで決めたことです」と申し入れをしてきたのだった。
それを聞いた中川大佐はしばらく沈黙していた。
そして突然、その申し入れをしてきたペルルュー島の原住民たちに向かって怒鳴り始めたのである。

「我々は誇り高き帝国軍人だ。貴様ら土人と一緒に戦えるか!!」

その中川大佐の怒鳴り声を聞いた原住民たちは

{ 日本人はわれわれと共に汗を流して働き、平等で優しく接してくれていた。しかしあれは嘘だったのだ。本当は侮蔑の心を隠していたのだ } と悟ったのである。

日本兵を仲間と思っていた原住民たちは悔しくて悔しくて、涙を流した。
そしてすべてのペルルュー島の原住民はパラオ本島に移ることになった。
その数日後、熱い日差しの中、日本兵に裏切られた思いの原住民はパラオ本島に向かう船に乗った。
船はペルルュー島の岸を離れていく。
しばらくすると何か波のまにまに聞こえてくる。
見えてくるものがあった。
船の中は、ざわめきが生じていた。
ペルルュー島の白い岸辺に大勢の日本兵が走りながら、遠ざかっている船に向かって手を振っているのが見えた。

日本兵が大声を出して原住民に向かって

「達者でな、さようなら、、、さようなら、、」と言っている。
中川大佐もその中に見えた。
日本兵たちはみんな、船に向かって、ちぎれんばかりに手を振っている。
そして日本兵は涙を流しながら大声で歌を唄い出した。
「さらばラバウルよ、また来る日まで、しばし別れの涙がにじむ。恋し懐かしあの島見ればヤシの木陰に十字星、、、、」

しだいに遠ざかっていく互いが互いをじっと見つめていた。
ペルルュー島に降り注ぐ太陽の日差しは熱かった。

{ あぁ、、、あのときの中川大佐の一喝はこのことだったのだ。我々を戦局から逃がすためだったのだ }

ペルルュー島の原住民は悟った。

あのとき怒鳴った中川大佐やまわりの兵隊さんたちは、我々の申し出に感動し心の中でうれし涙を流していたのだ。

しかし私たちを戦争に巻き込まないために、私たちの怒りをかうように仕向けたのだった。まわりの兵隊さんたちも、そ知らぬ顔をしていた、、、 }

その日、船に乗っている原住民たちと日本兵の心はつながっていた。

互いは見えなくなるまで別れを惜しんだのだった。
1944年9月15日、ペルルュー島をめぐって日米の戦闘が始まった。
大量の兵器を持ち十分な兵力のアメリカ軍は2〜3日もすればペルルュー島の日本軍を陥落できると考えていた。

ところが予想と違うことになる。
アメリカ軍が島の上陸前に森を焼け野原にして十分な爆撃をしたあと、岸辺に上陸するや否や日本兵との戦いが始まった。

日本兵は地下壕を使いゲリラ戦を繰り返し攻撃してきた。
日本兵はおよそ10500人。圧倒的な火力兵器力を持つアメリカ軍はおおよそ48740人。
ビーチは後にオレンジビーチといわれるほど互いの血で染まった。
一週間持たないと思われていたペルルュー島の闘いは数カ月続いたのである。
しかし、とうとう日本軍の玉砕の日が決まった。
中川陸軍中将は割腹自決。
11月27日に日本軍は玉砕を遂行し陥落した。
10500人いた日本軍の生き残りは34人だった。
アメリカ軍の死亡者は約3000人、負傷者は約7000人ほどだった。
ペルルュー島に上陸したアメリカ兵はアメリカ軍人の死体のみを片づけた。
島に戻って来た原住民は、異臭を放っている日本兵の死体を片づけてくれた。
そればかりでなく墓も建ててくれたのである。
今もパラオの人たちの手厚い管理のもとに日本軍人たちの墓は保たれている。
アメリカはパラオを支配することになり宣伝と教育が始まった。

それまでの日本の統治がどれほどのひどい統治の仕方だったかを原住民に伝えようとしたが、無駄だった。

それどころかパラオは国を変えていく。

独立の機運が高まったのである。
1981年ようやくパラオはアメリカから独立を果たし「パラオ共和国」になった。
生きること、死ぬことを互いの肌で同じように感じていた日本人とパラオ人。

互いが命をかけて互いを助けようとした。
あのとき、互いの心と心の火花は絆となった。
その心の絆は切れることは、、ない。

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