日本人

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その日、優子は娘のうむいを連れて近くのコンビニエンスで買い物をしていた。
「どうしたの、うむいの大好きなあのお菓子はいらないの?」
うむいはもじもじしている。
いつもは真っ先に大好きなお菓子を買うはずなのに迷っている様子。
優子がいくら誘っても「うぅぅん、、今日はいい」とうむいは答える。
優子はレジに並んだ。
優子は買い物かごに入った品物の代金を支払った。
「さあ、帰ろう」
「ちょっと待ってお母さん、、、」
「どうしたの?」
「あのお菓子のお金を頂戴」とちっちゃな右手を差し出す。
「まぁ、うむい、、、やっぱりほしくなったのね。それなら、あそこの棚からお菓子を持ってきなさい。並びなおして払うから」

優子の後ろに並んでいた人を促して、再びレジの最後尾に並びなおした。
「違う、あのお菓子の分のお金を頂戴」
「えっ、、、なんで?」
すると、うむいはレジ横の箱を指さした。
そこには「東日本大震災募金」と書いてある。
「あぁ、そうか、、うむいは募金をしたかったのね」
「、、、、、、」
「わかった」
優子は財布からお金を取り出した。
「そしたら、うむいと私の分のお金を一緒に募金しようね」
「おかあさん、、、ありがとう」
優子は二人分のお金を募金箱に入れた。
レジで働いている若い男の子が、優子とうむいのそんな様子をじっと見つめていて、ひときわ大きな声で「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
優子とうむいは手をつないで、コンビニエンスストアを後にした。
{ 着実にうむいは育っている }と優子は思った。
「お母さん、私ね、テレビで見たの」
「この間の東日本大震災の様子ね」
「うぅん、、、それもそうだけど、」
「他に何か見たの?」
「うん、私より、もっとお姉さんくらいの女の子のことが忘れられないの」
「えっ、、、どんな女の子?」
「丘の上から、ありったけの大きな声で海の方に向かって叫んでいたの」
「、、、ん、、叫んでいた?」
「おかぁさん、、おかあさん、、おかあさん、、何度も何度も、、、、、、灰色の海の方に向かって叫んでいたの、、、、、」

うむいの小っちゃな手が、母の手を握りしめた。
「、、、、、、」
2011年3月11日、日本の東北地方太平洋沖地震は国内観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大さだった。
北は北海道から関東までの沿岸を津波が襲い、甚大な被害をもたらしていた。
毎日のようにぞくぞくと現地情報が寄せられる。
自衛隊、消防、警察、ボランティアなど日本国民はこぞって動き出していた。
世界の国々からは、援助隊やたくさんの援助物が届いていた。
助ける方も助けられるほうも本来の人間の心が現れる。
現地で行列に並んでいた幼い子供が援助物資を多く貰うことを遠慮して「私はこれで十分です。他の困っている人にあげてください」と申し出ている。
佐藤充さんは、雇っていた中国人を車いっぱいに乗せていち早く高台に逃れることができた。
しかしすぐに家族のことを心配して、一人、車に乗って町の方に戻って行った。
そして佐藤さんは帰ってこなかった。

うみちゃんという子は手紙を書いた。

「じえいたいさんへ。げん気ですか。つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちがみんなしんでしまいました。でもじえいたいさんが、がんばってくれているので、わたしもがんばります。日本をたすけてください。いつもおうえんしています。

じえいたいさんありがとう。」

優子はふと思い出していた。
それは1945年8月15日、大東亜戦争の日本の敗戦日。

そして、その約3年後である1948年9月9日、午前5時45分、インドネシア、チモール島クーパンにてある男たちが死んでいった。
その中の一人の名は前田利貴。
加賀藩始祖である前田利家の末裔で、華族の長男だった。
学習院から法政大学に入り、学生時代には世界一周するなど裕福な家庭に育った。
馬術が得意で学生時代には大会で何度か優勝もし、オリンピック出場予定候補でもあった。卒業後は三井物産に勤務していた。
その前田が、仲間と後世の日本人にメッセージを残している。
「親愛なる皆様、先ほどは御親切な御激励の辞をいただき熱く感謝いたします。
今まで遺書の清書をしておりましたので御返事が遅れて申し訳ありません。
大変面倒見ていただいた同胞も金内さんも引き揚げられ、我々は兄弟以上の間柄でした。
一本の煙草も分けて喫い、助け合い激励し合ってきましたが、いよいよ私達二人先発することになり、今まで御厚情に対して深く感謝致します。

、、中略、、、
もし四人の中に一人でも無事ならば私たちの最後の状況をいつの日にか同胞に知らせていただきたい。
私の最後の申し出として、
●目隠しをせぬこと
●手を縛らぬこと
●国家奉唱、陛下の万歳三唱
●古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一びん
これは屍体を処理する者に対する私個人の心遣いであります。
●遺書遺品送付
当日私の決心は、自動車から降りたら裁判長並びに立会者に微笑とともに挙手の礼をし、最後の遺留品として眼鏡を渡し、それから日本の方に向かって脱帽最敬礼、国家奉唱、両陛下万歳三唱、合掌しつつ海ゆかばの上の句をとなえつつ下の句を奉唱し、この世をば銃声と共に、はいさよならという順序に行くつもりで、私のような凡人に死の直前に歌が唄えるかどうか、これが最後の難問題だと思います。
皆様に対し遺留品として、糸、針、古新聞、本(マレー語) アテコスリ(マッチ) その他手拭、歯ブラシ、衣類なんでも申し出に応じます。前田」
この本「南海の死刑囚独房」は、山口亘利氏が著した。
山口氏は愛知県豊川市出身、憲兵隊少尉候補二十一期生、憲兵大尉としてオランダ領スンバワ島にて終戦、1948年死刑求刑。1956年恩赦、帰国後、巣鴨拘置所の獄中にてこの本を出版した。

「南海の孤島蘭印チモール島クーパンに死刑囚として六人が残された。
誰か一人でも助かって、死刑囚の悲痛な最後を祖国の同胞に知らせてほしいとは、明日に銃殺を控えた死刑囚の血の叫びであった。幸い私が奇跡的に減刑の恩典に欲して祖国に帰った。
この手記は、戦犯死刑囚の諦めきれない死の呪いをありのままに概要を記したものである。なお、クーパンにおいて悲痛な最後を遂げられた方々は、次の通りである。
前田利貴、穴井秀夫、楠元信夫、西條文幸、笠間高雄。
最後に本書の出版にあたって、多大な厚意と御努力下された巣鴨同人矢島七三郎氏、および飛鳥書店時女郁男氏のご好意を感謝いたします。」
オランダの復讐裁判によるいわれなき罪により、獄につながれていたのでした。

収容所は珊瑚礁の上にありました。
「お前たちの墓場を掘れ」と云われて大きなつるはしで作業をさせられたが、太陽に照らされてフラフラになり、倒れそうになるといきなりボクシングと同じように殴打される。
失神するとテントまで引きずっていって水をかけ、気がつくとまた掘らされた。
一日に失神すること三回。

珊瑚礁の上を引きずられた時の背中の傷が痛み夜は眠ることが出来なかった。
大きい岩を意味もなく動かすように命じ、運んでいると蹴ったり足をかけたりして倒す。

一週間もすると皆、殴打の為に顔は膨れ身体は浮腫んで来た。

取調べを受けた者が部屋から出てきた時には死体になっていたこともあった。
身体には多数の皮下出血があり、明らかに虐待致死だったが、その取調官が裁かれることは無く、虐殺されている側の日本人捕虜たちは、身に覚えの無い「捕虜虐待」の容疑をかけられ次々と処刑されていった。

陸軍大尉前田利貴も全く身に覚えの無い「現地人拷問致死」の容疑で死刑判決を受けた。

裁判では、現地住民の多くが、前田に有利な証言をしているのにかかわらずである。
「刑務官は自動小銃を構え、もし若干でも抵抗の様子を見せたら射殺せんと眼を光らせている。
死刑は目前に迫っており、たとい銃口をつきつけられても少しもおそろしい気持ちは起きなかったが、もしこうしたところで射殺されたならば、逃亡しようしたから、射殺したと報告するのは明らかで、いまさら命を惜しんでの卑怯な逃亡の汚名をかぶせられることは自尊心が許さない。彼らのいうままに動くほか仕方がなかった。
これ以上の虐待は生きんが為と思ってじっと耐えてきたが、このように死刑囚として精神的にあえいでいる者を面白半分に虐待し凌虐する卑怯さに、いっそ兵器を奪って復讐をと幾度となく思い立った。
しかしそうした自分の行動が穴井西條両君をも虐死させることになるだけでなく、キャンプの日本人が復讐を受けることは必定で、血で血を洗う修羅場を引き起こす事になると思うと「今しばらくだから耐え忍ぼう」と逆流する血を抑えて眠られぬ夜々をすごした」
山口氏の著書には前田大尉は、一緒に処刑される穴井秀夫兵長に対しても細かい注意を与えていたことも記されている。
「穴井君、左のポケットの上に白布でマルク縫い付けましたか」
「はい、今日の明るい中につけて置きました」
「白い丸がちょうど心臓の上になるのだ。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら永く苦しむだけだからね。それから発つ時毛布を忘れないように持っていきましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。それでないと砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えると嫌な気がするからね。死んでからどうでもいいようなものもせっかく毛布があるんだから忘れずに持っていきましょう」
●中略●
オランダ軍に銃殺処刑される日は前田利貴大尉三十一歳、穴井秀夫兵長三十歳でした。
処刑終了した夜、衛兵所でその処刑の状況を現地兵が会話した。
「歌を唄った?」
「とても大きな声で唄った」
「大きな声で」と他の兵隊が聞き返した。
「そうだった大きな声だった」
「、、、、、、、」
「何で笑ったのか」
「判らない、、、、笑っていた」
「何が」おかしかったのか、、、、」
「死刑はこわくないのか」と剣をつきつけ、我々を揶揄し、馬鹿にし、軽蔑していた兵隊が、こうした言葉を使わなくなり、また従来意地の悪かった兵隊の態度もすっかり変わりました。

以下二つは前田利貴大尉が残された歌です。

国のため棄つる命は惜しまねど心に祈るはらからの幸

身はたとえ南の島に果つるとも留め置かまし大和魂

大東亜戦争は、日本の侵略戦争だったと言う人々や政治家がいます。また日本軍が大規模な虐殺をしたり、慰安婦問題を起こしていたと主張している人々がいます。

本当にそうだったのでしょうか?

どのような事実データーからそうだったと断言しているのでしょうか?

どこの国でもそうですが、戦時下では特殊な任務組織などが活動していました。当時は秘密だった組織などの情報でさえ、現代では次々と明らかになっているのです。

もし数十万人規模の大量虐殺や慰安婦問題があったとすれば、多くの客観的な信頼できる情報やデーターが出ていいはずです。

またあの時代は、日本だけでなく多くの国々では、貧しい農村の婦女子が都会や地方へ出稼ぎなどするのは、当たり前の時代でもあったのです。

日本の明治維新は、欧米諸国からの植民地化を防ぐために武士が中心になって行なった改革でした。

世界各国の植民地化を進めていた欧米諸国は、サムライの国、日本を植民地化できなかった。それどころか、この小さい国の日本は維新後、数十年しか経ってもいないにもかかわらず、日清、日露などの大国との戦いに勝利を続けていったことに脅威を感じていました。

それ以上に日本に大きな関心を寄せていたのは、すでに植民地化されていた世界の国々や地域でした。

日本の皇室は世界に類のない長い歴史があり、国民に愛着を持たれ続けています。

神々への祈りと国民の安泰と繁栄を願う皇室と国民は、心の絆で結ばれています。

そのような日本国民は東日本大震災のときにも普段と変わらず豊かな民度を示し行動しました。

世界の人々からすれば、被災地の人々だけでなく多くの日本人の道徳的な行動に目を見晴らせたものがあったかもしれません。

日本人からすれば、援助物資の受け取りや分配の行列に割り込みをせず、できるだけ礼儀を守ることなどは日常生活の一部です。

まわりの困っている人々や助けに来てくれている人々にも心配りをします。

このような日本人の優しい気質は、今に始まったことではなく古から培われ続けているものです。

遠く異国から助けに来てくれた心優しい人々と日本人の心が触れた瞬間に国や人種を超えた人間同士の熱いものが込み上げたことだろうと推察します。感謝しております。

大東亜戦争のときの天皇の「開戦の詔書」と「終戦の詔書」は読むべきです。

植民地支配を拡大しようとしていた欧米列国と同様に、日本も植民地を得たくて、アジア諸国に日本軍を派遣したのでしょうか?

当時の日本が自存自衛、かつ植民地の開放を望み、世界の平等と平和のために行動しようとしていたことがありえると思う人はいるでしょうか?

欧米列国に植民地化され搾取されていた国々の人々が、日本軍を見てどう感じていたのでしょうか?

大東亜戦争後にそれらの国々はどうなっていったでしょうか?

そして植民地支配から解放された国々の人々が、敗戦の日本を擁護してくれたのは何故でしょうか?

歴史の真実を判断するには、できるだけ当時の状況に分け入って、真摯に客観的に調べる必要があります。

現代の認識や思惑や嫌悪感などで過去を安易に判断してはいけない。

私たちはいつの時代も不条理の世界に棲んでいます。

いじめ、暴力、侵害、謀略、情報操作、プロパガンダなど。

これらは過度のエゴイズムからくるようです。

そのエゴイズムにより、金銭欲、支配欲、差別、傲慢、人権侵害などを増長させ世の中を不安にさせて争い事が増えていきます。

いじめっ子たちが、おとなしいクラスメイトたちを虐めていました。

小さな子は我慢を続けていましたけれど、とうとう、虐めっ子たちに歯向かったのでした。

それまで虐められていた他の子たちは、虐めっ子たちに戦いを挑んだその小さな子の様子をじっと見つめていました。

この小さな子は、クラスメイトを虐めませんでした。しかし虐めっ子たちに歯向かったので、余計に虐められ、苦しみもがき、裏切られ、汚名をかぶせられ傷つきました。

この世は汚れた池ような状態です。

しかし、この汚れた池に愛と正義と勇気と忍耐と志という美しい大和魂の花々を咲かせているのです。

戦争や戦いを評論したり批判するのは簡単です。

幕末維新や戦争などで、志や熱い想いを抱いて行動した人々や思い半ばで倒れた人たちは大勢います。すべての英霊たちは当時と将来の私たちのために汗と涙と血と命を捧げたのです。

英霊たちに対して感謝と祈りを続けることは、私たちの誇りであり責任だと思います。

どこの国の人でも互いの命を懸けた戦いで死ぬときに、心のどこかで叫んだかもしれません。

「おかあさん、おかあさん、おかあさん、、、」

殺すほうも殺されるほうも不幸になる戦争や紛争などしないで、世界が平和で心豊かであってほしいという祈りを秘めて。

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