法話

1-162 法話
うむいは法話を聴くのか好きだ。
法話というより「お話」と言ったほうがわかりやすい。
いつものようにうむいの神様が、ときどき「お話」をしてくださる。
「お話」を聞いていると本当に勉強になるから大好きなのだ。
うむいに「お話」して下さる神様はきれいなお顔立ちで、白い長髪の人だった。

「お話」を聞いているとうむいは、

いつのまにか「お話」の中にいてとても気持ちがいい。

どんなテーマの「お話」でも幸せを感じるから、いつまでも聞いていたくなる。
でも神様がお手すきになったときに話をしてくださるのだから、うむいはひたすら神様が来てくださるのを待つことになる。
ときには神様からの言いつけで、うむいはお手伝いをすることがある。

そういうときは一生懸命にする。

うむいのいたあの世の生活の場は、とても美しく清らかな花々などに囲まれているところだった。
そこに住む人々は誰もが優しくて楽しく生活をしている。
悪いことを考えたり、邪魔したり憎んだり、嫉妬したりする人は一人もいないところだった。

あの世で人々の住むところは、心の程度や領域などが同じような人たちが集まっているらしい。

光り輝く領域から暗闇の蠢く領域まで、さまざまな心の高さなどに応じて生活のエリアや場が分かれているという。

しかし、この世に来てみたうむいは戸惑っている。
見るもの聞くもの初めてで、さまざまな制約が多いし、あの世でできることがこの世ではできない。
逆にこの世では風邪をひいたり、お腹が痛くなることがあったり、身体の調子が悪くなることもあるのだから驚く。
眠ったりトイレに行ったりしなければならない。
何もかも不自由なところでもあるけれど、食事は楽しいと思う。
「あの人」も「その人」も、あの世の輝かしいところから降りていらっしゃっていることぐらいは、うむいにはわかる。
うむいが「あの人」と「その人」のお姿を観たときの驚きは桁違いだった。
おそらくあの世では「あの人」や「その人」のことをうむいが知ることはなかったかもしれない。
この世では心の聡明な人々から暗闇に彷徨う人やいろいろなら人たちが一緒に生活しているようだ。
いろいろな人がごちゃごちゃ生活しているように思える。
見方を変えればこの世は、あの世とは違う体験ができるところなのかもしれないと感じてきた。
だから、この世の体験をするということの中に大事なことがあるのではないかと思うようになってきた。

テレビでは毎日、事件や事故や人の話などが報道されていて、大人たちが真剣になって話をしている。

誰かが誰かを殺したとか傷つけたとか、ニュースが流れていたけれど、うむいの住んでいたあの世ではありえない話だった。

あの世では暗闇の世界や領域があるらしいけれどもこの世はそこに似ている部分があるかもしれない。

うむいはあの世の生活のことは覚えている。
しかしお母さんやおばあちゃんたちはあの世のことは覚えていないらしい。
しかし「あの人」や「その人」は、あの世のことはよくご存じんのはずである。

というより想像もできないくらい偉大なことができる方たちのように思う。
だから、うむいは「あの人」や「その人」が、この世に降りてこられたわけがよくわからなかった。
でも様子を見ていると、あの世の高い輝かしい世界から、こんなじめじめした暗い世界に降りて来られたのは、何かの理由があるのではと考えるようになってきた。
うむいは、この世での体験をしているうちに「あの人」と「その人」は、何か目的があって行動されているように思えるのだ。

でも偉大な人でもこの世のごちゃごちゃしたところに住む人たちと接するのは大変なことになると心配している。

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