1-160 誓
その日、いつもより遅く、うむいは母のベッドで寝かされた。
母は後で来てくれて、手をつないで一緒に寝てくれた。
すぐにうむいは眠りが深くなっていった。
{ あぁ、、また「あの人」のことが観れるのかなぁ?}
うむいは「あの人」のことを想うたびに心が高鳴る。

今日も「あの人」のことを観たいと思っていたが少し違うようだった。
それは、、、。
しだいに古い古い昔の風景が開けてきた。
うむいの心に想っていた風景とは違う場所のようだった。
このあいだの「あの人」のところは緑のある風景が多い。
ここは緑はあるものの、どちらかというと茶色と黄色の空気が流れていて石造りの建物の多い乾いた感じのところだった。
それに「あの人」とは違う人だった。

「その人」は、薄汚れた白い布のようなものを巻き付けた衣服なのだから形は違えども少しは「あの人」と似ている。
だが「その人」を中心にして周りには、たくさんの人々が集まっていた。
大勢の人たちは、いろいろな古茶けて汚れた暗い色のさまざまな衣服を着ていて不規則に並んでいた。
「その人」は老人の身体に衣服の上から手を当てている。
しばらくすると手を当てられていた老人の顔に微笑みがおとずれる。
そして両手を組んで「ありがとう」という意味の言葉とともに頭を下げて、その場を離れた。
すると次の順番の老女は待てないかのように「その人」に向かってしゃべりだす。
「その人」はその老女の訴えを聴いているのかどうかわからないけれど、すぐにその老女のお腹に手を当てた。
しばらくするとその老女も微笑みがおとずれるのだった。

その人の手当てを待っている行列が少しずつ動いている。
まるで「その人」の周りを渦を巻くようにして列をなしている人々は、ひたすらその治療を待っているように見える。

年をとっている人ばかりでなく、子供を抱いた母親もいる。

何百人もいるように見える。
うむいは「その人」が何をしているのかと思い、すぐそばまで行ってみた。

それでもよくわからないので「その人」の脇近くまで行って「その人」の手の動きを見つめてみた。

不思議なことにうむいのことは誰も気づかない。
しかし「その人」は、うむいがすぐそばに来たのを知っている。
うむいもまた自分が「その人」に感じられているのがわかった。
それだけではなく「その人」に微笑みかけられたのである。
うむいは思わず「その人」の顔を見て驚いた。
{ なんて美しい表情なんだろう } と思った。

「その人」は長い髪をしたおじさんのようだった。
でもこんな優しい目をした人をうむいは見たことがなかった。
瞳の奥から得も言われぬ輝きと優しさが醸し出ているのがわかった。

表情だけでなく体全体から慈しみのある雰囲気が漂っている。
あの瞳に見つめられたら、くぎ付けになってしまう。
うむいは、このままいつまでもそばにいたいと思った。
もしかしたら「その人」の感じは「あの人」ぐらいかもしれない。
でも「あの人」はいつも厳しい目で修業をなさっている印象がある。
目の前の「その人」は人々に囲まれて誰にでもおだやかに優しく接している。
でも「その人」はお腹が空いているのをうむいは感じている。
それでも「その人」はニコニコして、順番を待っている人に接している。
うむいだったら「お腹が空いた」とお母さんやおばあちゃんに向かって言うか、騒ぐはずなのにと思った。
しばらくすると、うむいは背後側に突き刺すような視線を感じた。
それは最初、何かはわからなかった。
ただ突き刺すような視線が「その人」に向かっているのが不思議だった。
「その人」の治療はとても速いようだ。
うむいは、お腹が痛くなったときや風邪になったり病気をしたときには、おばあちゃんやお母さんに連れられてお医者様のところに行くことがある。

だけど待つ時間が長いし、体はいろいろと触られるし、ときには痛い注射をされることもあるから嫌いだ。
ああいうやり方は良くないと思う。

こちらは病気して苦しんでいるのに、あるお医者様は「うむいちゃんのお体を診たけど何でもないようだよ。きっとお母さんに甘えたくて痛いって言っているんだよねぇ?」といわれたことがある。

私の病気がわからないんだと思う。

あんなに調べたのに。

でもそう言っていながら、お医者様は私の嫌いなお薬を出したり、あの痛い注射をすることがあるのは、どこかおかしいと思う。

それでもお母さんやおばあちゃんは、そのお医者様にお礼を言ったりお金を払うのだから、もっとおかしい。

苦しんでいるのは私なのに。

でも「その人」は違う。

心から優しい。
「その人」のやり方を見ていると手を当てているだけで、しばらくすると苦しんでいる人が微笑みだして治るのだから、断然こっちのほうがいいと思う。
{ こういう方法なら、今度行く病院でもやってほしい }
と、うむいが思っていると、さっきのきつい視線を出していた若い男の順番になった。
その若い男は自分には痛みがあって苦しいということを「その人」に伝えてはいるけれど、うむいにはその若い男が病気でもなんでもなく、なんとなく悪巧みがあるように感じた。
「その人」はその若い男の気持ちがわかっているはずだけれど黙っている。

うむいにはそのことがわかった。
その若い男のそばには仲間の男女が何人かいた。
その仲間たちも意地悪そうな目つきで「その人」の様子を見ている。
彼らは「その人」が本当に病気を治せるかどうかを見定めようとしているし、なぜかしら嫌がらせをしようとしているのが、うむいにはわかった。
しかし「その人」は、疑いや悪意のあるこの人たちのことがわかっていながら拒否することもなく、その若い男のお腹に手を当てている。
しばらくするとその若い男は、騒ぎ出した。
「いったい、いつこの痛みは治るんだ」と言っている。
まわりにいる仲間たちも騒ぎ出し「すぐに治るという評判だから、このナザレの地まではるばる来てみたが、この野郎は嘘つきだ」と罵りだした。
「その人」に向かって、何人もの男女が悪い言葉を投げつけている。
しかし「その人」は、なにも応えずに黙って見つめているだけである。
しばらくすると順番を待っている後ろ側にいる他の人たちが、その悪口を言っている人たちに向かって文句を言い出した。
まだ順番を待っている人たちも早く治してもらいたいからだ。
その声が大きくなるにつれて、悪口を言っていた男女がようやく立ち去っていった。
うむいは、ほっとしたと同時に腹が立ってきた。
{ あの人たちは「その人」に悪口を言っていたが、病気でもないのに治せとはなんと悪い人たちなのだろう } とあきれた。
{ ひねくれた人たちというのは、いるんだなぁ }と思った。
しかし「その人」はそんなことがあっても怒らないで話を聞いていたのだから、どうしてなのだろうと思う。

それとも次の順番を待っている人のことを治療したいからなのかわからないけれど、うむいには不思議な気がした。
きっと怒ることをしない人なのだろうかと思った。
それに比べてお母さんはときどき鬼のような顔つきになって、うむいのことを怒ることがある。
ただお母さんが、うむいに向かって怒ることは「その人」に対して悪態をついたさっきの悪い男女とは、まるで違うことはわかる。

お母さんはうむいに意地悪をしない。
それにどうしても不思議に感じたことが、まだあった。
「その人」の治療をしてもらうために並んでいる大勢の人々の治療が終わるのには、とてもたくさんの時間がかかるはずだと思う。
{ いったい、いつまで「その人」は治療をするつもりなの?

あそこに並んでいる人たち一人残らず治療をするつもりなの? }と思う。

{ あんなに並んでいるのだから大変だよ。

休まないと疲れるだろうと思う。

だって、うむいはお手伝いをしたくてもできないし、、、}と思う。

それに「その人」は、誰からもお金も貰わずに治療をしているし、治療をしてもらった人は誰も「その人」にお礼をしようとはしない。
誰もが「ありがとう」と言って、とても感謝の顔をして立ち去って行く。
涙を流して感謝している人たちもたくさんいる。
もっと不思議なことに「その人」はお腹が空いているはずなのにいつまでたっても何も食べようとせず、人々の治療ばかりしている。
{ 少し食べて休んでから、また治療をしたらいいのに } と、うむいは提案したいと思った。
「その人」のお腹はペコペコのはずなのは、うむいにはわかるので心配している。
でもよく見ていると治療をされている人たちもお腹が空いている人たちが多いことがわかった。
{ きっとこの人たちは、食べ物があまりなくて貧乏なのかもしれない 。

もしかするとお金がなくて病院にも行けないのかもしれない }

うむいはこんなことは考えたことがなかった。
だから、うむいは {「その人」と列に並んでお腹が空いている人たちにも食べ物を届けたい } と思った。

{ きっとお母さんがうむいのための食べ物を冷蔵庫に入れてくれているはずだから、それを持って行ってあげられるかも } と思った。

それでどうしたものかと考えてみた。

だけど見ることはできるけれど何もできないことに気づいた。
それでまた、うむいは考え込んでしまった。

そして考えて考えて考え込んだ末に結論が出た。

「そうだ!! おかあさんが作ってくれた食べ物に愚痴を言ったり、不平を言うのを止めよう」とうむいは心に誓ったのである。

こんどはその「誓い」のことで、うむいの頭はいっぱいになった。

だからそのあとのことは、あらためて考えることにしたのだ。

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