緊張とリラックスの差

1-149 緊張とリラックスの差
「真剣勝負の場合は基本的にルールがないのです。
勝った方が生き残ります。
動物でもそうでしょう。
負けた方は大けがをするか、人生は終わりになるかもしれません。
人間ではそれを防ぐためにルールを設けてスポーツという形になっているのです。
社会では法律や社会通念などの中で生活しています。
しかしそれを乗り越える者たちが出てくる。
いわゆる異常者や犯罪者あるいは悪の存在です。
あるいは人生に立ちはだかる病気や事件など予想がつかないこともあります。
皆さんは、日頃、スポーツで鍛えていると思うのですが、こと試合となると緊張してしまいますよね。
勝とうとする意識がそうさせるのでしょう。
では自分が相手より力量があると思えればどういうふうになるでしょうか?
相手が小さな子供だったら、どうでしょうか?
緊張などをあまりしないことでしょう。
自由自在に相手に対して自分の力を発揮できるかもしれません。
あるいは相手を力任せにねじ伏せることができるかもしれません。
しかし逆に相手より自分の力量が劣ると思えたときにはどうでしょうか?
私たちが竹刀を使っているときと同じように心と身体の動きは自由にできるとは思えません。
緊張もすると思います。
ところが真剣になるといままでのその考え方が、もっと通用しなくなることもありえます。
それに相手との力量差がわからないとか、その差があまりないと思われるときには緊張の度合いがさらに高くなります。
技や体力などより、緊張の度合いの強いほうが負ける可能性が高くなるのではないでしょうか?
まして自分が相手との力量に劣るかもしれないと思ったときには最高潮の緊張をすることでしょう。
そもそも力量に差がありすぎると思っていたら、真剣勝負をしないかあるいは避けるでしょうね。
これは個人間でも組織間でも国と国の間でもそうでしょう。
でもここで考えてほしいのです。
では昔のサムライたちはどういう風にして日頃、訓練をしていたのでしょうか?
先ほど「納得いくまでの練習をすればいい」というようなお話が出ましたけれど、本当にそれは納得のいく練習なのでしょうか?
本当に安心できる練習なのでしょうか?
なぜかと言いますと、真剣勝負だったら負けたら死を意味するからです。
侍は、サムライ同士だと喧嘩をしたり刀を抜いて戦う場面は避けたいのが人情だと思います。
もし刀を抜くような状況になったら意地もあるでしょうから、なにがしか納得のいく決着をつけないことには収まらない。
とすれば喧嘩するにも戦うにも事前の心構えとか、闘うときの備えとか、さらにその先のことまで考えておくことが必要になるでしょう。
つまり日頃から緊張をしない自分をつくる必要性があることになります。
となると心のバランスをどういうふうにとっていくかを考えることになるのです。
余計なことになるかもしれませんし、こんな話をすれば何時間も何日もかかるかもしれませんのではしょって話を進めます。
要は私が学生から社会人になって、社会の通念やルールがあるにせよ、予想もしないことが次々に出てきたのです。
そんな経験をしていくうちに、何事か起きても少しでも安定した心で対処できるような人間になりたいと思ったわけです。
例えば、あなた方は十分に若さと健康と勢いがあります。
しかし今後は予想もしていない病気とか事件事故にあったりと、いろいろなことが起きると思います。
もしかすると絶望するような落ち込むようなことが起こるかもしれません。
年もとっていきますと大きな病気になるかもしれません。
極端に神経質になったり、気弱になったりするかもしれません。
でも考えてみたのです。
日頃から心の問題を考えたり訓練しておくのとしていないのとでは、まったく違う人生になると思ったわけです。
皆さんには、そのためにもスポーツを利用してほしいと思います。
つまり心のバランスをどういうふうにして保つかの鍛錬を技や体の訓練とともにしてほしいのです。
ところが、スポーツでの剣道では真剣ではないので、その実践感覚での心のバランスの訓練がおろそかになっているのではないかと思います。
どうしても技とか体のことを優先してしまいます。
それで私は、それらのことを自分の心技体について検証するために木刀で練習をしてみたいと思ったわけです」
学生たちは、うんうんうなずいたり、考え込んだりしている。
はてはつまらなさそうにそっぽを向いている人もいる。

よかったら、以下のクリックをお願いします。


にほんブログ村 ⇔ 人気ブログランキングへ

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です