●1-46 夫の暴力

夫の純一はいつものように朝食を食べた。昨晩のことを忘れたかのようだった。
朝食を済ませ夫は平然と仕事に出かけていった。
足音が消えてから「ふぅ~っ」と妻の優子は緊張の糸が切れたように椅子にへたり込んだ。
昨晩遅く、酒臭い息をして帰宅してきた夫はおもむろに玄関先で黒いかばんを放り投げ、優子にビールを出せと怒鳴った。
優子は { 今夜はいつもより機嫌が悪そうだ } と思いながら、冷蔵庫からビールを出してコップとともにダイニングテーブルの上に置く。夫は自分でビールをグラスについで一息に飲んで間もなく「つまみはどうしたんだ」と言う。「ちょつと待ってて」と優子が応えると「早くしろ」と怒鳴りつける。こんな様子は今に始まったことではないのだが、、、、
こんなとき、いままでの優子なら、夫になるべく静かに対応してきたつもりである。
でも時にはちくりと意見や批判をすることもあった。自分としては良かれと思って言ったつもりなのだが、夫の受取り方次第でさらに嫌な雰囲気が生まれてくる。変な受け取り方をされるくらいなら、言わないほうがいい。夫婦の会話は少なくなっていくにつれて優子は夫に話しかけられても最小限の言葉しか出なくなっていくことになる。そのことがかえって夫の気持をいらだたせるのかもしれない。純一も結婚当初の会社勤めをしていたころは、そのようなことはなかった。しかし次第に優子に対してじめじめとした物言いになってきた。今風に言えばモラルハラスメントのようなものではあったが、そのころ暴力的に荒れるということはなかった。姑の存在も関係していたように感じる。
しかし東京にきて徐々にではあるが変わってきたのである。思いもよらず暴力的な夫が日常化しているのだ。最初のころは軽く小突く程度だったものが、平気で殴ってくるようになった。優子の実家は近くにある。しかし優子は夫のことを実家の親に相談することを躊躇していた。それは夫の立場もあったし、自分の親に心配をかけたくないという強い気持が優子にあったからである。
夫のことを { 人が変わってきた } と思うしかなかった。それが何故なのか、その理由が判然としていなかった。ただ暴力がこんなに続いていくとは思わなかった。
しかし、、、、いまではその「理由」を優子は知っている。
夫のために酒のつまみを用意している優子の背後に向かって、「遅い」と言って夫はグラスを床に投げつけてきた。
「ガチャン、、、」とそのグラスとビールが床の上で砕け散った。優子はさすがにその音に「びくっ!」と身体を震わせた。この夜の優子はこんな夫の態度にさすがに腹が立ってきて、つい無視をしてしまった。その様子に夫はいきり立つ。優子に近づいてきて、いきなり優子の後ろ髪を掴み、後ろ側に引きずる。人は後頭部の髪を強い力で後ろに引きずられると相手のするがままにならざるをえない。夫はリビングに散らばったグラスの破片の近くまで優子の髪を引きずっていく。斜め後ろ側に優子の髪が引っ張られ、思わず優子は夫のほうに目をむいた。そのうむを言わさぬ夫の行動に優子に憎しみの表情が表れたかもしれない。夫は掴んでいた手を離しながら、その手で優子の頭を叩いた。思わず優子は両手をついて床に崩れ落ちる。優子はグラスの破片のいくつかが下半身と両手に突き刺さった感じがした。
「お前、、俺はわかっていたんだ、お袋と俺に妊娠を内緒にしていたくせに、、、、考えてみればお前、東京に来る前に自分が妊娠していたのをお前は知っていたはずだ、、、何故あのとき内緒にしていたんだ。、、この野郎、、妊娠していたら、お前は東京に来ることはなかったんだ。わかっている。お前の策略だったんだな。お袋を遠ざけたかったんだ。
、、、、、くそっ、、、、、、、」と言いながら、夫は優子の背中側を足で蹴った。
「そんなことはないです、、、」と優子はかろうじて呟く。肯定するわけにはいかないのだ。
あの頃、優子は姑と離れて住みたいという気持ちが募っていたことは確かである。夫にも姑のことで不平を漏らしたこともある。ただ夫から東京に住むことや新しい会社設立の話が出てきたので、その話がある程度、進んだら自分が妊娠していることを報告しようという気持ちだった。結果的に報告したのが遅かったのかもしれないが、そんなにいきり立つほどのことではないと優子は思っていたのだ。それにその妊娠の報告を早くしたところでそんなに影響があったとは思えない。もしかすると妊娠していたことで優子を姑のところに一時的に大阪に引きとめられたかもしれない。しかし夫自身が優子の父に東京での会社設立や資金のことで相談していたはず。当時、東京に一緒に住もうと言い出していたのは夫のほうではないか。
{ 今更ながらこじつけなんだわ、、もともと妊娠とは関係なかったはず、、 }と優子は思うほかはない。|
優子の手のひらやどこかに割れたグラスの破片が食い込んでいる感じがする。
「そんなことはないわ、、」という優子の返事を聞き終わる前に純一は、優子を再び蹴った。
「うっ、、、」と思わず、優子の唇から漏れる。
そのとき突然、ガチャッとドアの開く音がした。
ふと優子は「ガチャリ」と音のしたほうを見る。リビングに隣接しているドアの隙間から幼い娘のうむいが身体の半分近くを出し、こちらを覗こうとしている。
「あっ、」と優子は小さく叫んだ。
{ 来てはいけない、危ない、 }と脳裏によぎると同時に夫の動きが優子の目に映った。
優子はその刹那、夫の動きの予兆を察した。うむいが開けたドアに歩み寄り突然、足で蹴って閉めようとする夫の心の動きを優子は察知したのだ。今思ってもなぜだかわからない。
確信に似たその優子の予知的な感覚と動きは不思議だった。もしもそのドアが蹴られたらポツンと立っているうむいにドアが強くぶつかり、どんなことになるかわからない。しかしそれを防ぐためにうむいのところに優子が飛び込めば、優子自身がうむいにぶつかる危険性があった。瞬間の動きだった。優子はそのドアが夫の足で蹴られようとする刹那、無意識にドアとうむいの隙間に飛び込んでいった。蹴られたドアは、「ブン」という鈍い音をしながら優子にぶつかった。
優子はすぐにうむいに近寄り抱きかかえる。幸いにもうむいは何事もなかった。
夫はそれを見ながら「ちえっ、、、」と舌を鳴らした。
荒々しく冷蔵庫からビール瓶を取り出し、戸棚から栓抜きとグラスを持って自分の部屋のほうに行ってしまった。
{ なんということだろう、まさか我が子まで }優子は去り行く純一の後姿を睨みつけた。
夫の去ったこの部屋に静寂がおとずれた。
優子はうむいを抱きしめると興奮しているのが伝わってくる。
優子はうむい抱きかかえながら台所に戻って包丁を掴んでいた。

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