1-34 永久に生きる


流れる川の上流を根源まで辿っていけばそれは無数の水滴にたどりつく。


水滴一粒一粒は結び合いながら川の流れとなり大海へと向かっている。


人生という川と海に漂いながら、人は嘆き。苦しみ。歓喜する。欲望を追求し。優劣を比較し。貧富の差を非難しながら富に酔い。平等と言いながら不平等な仕組みを作り出す。嫉妬や増悪や屈折が増し、いじめから暴力となり復讐を伴い争いは絶え間なく生じていく。


しかし苦難を克服し愛に目覚める者もいる。自分の人生の意味を求める者もいる。悪から立ち直る者もいる。


やがて死が訪れ魂の故郷に戻ったとき生命の永遠に気づく。いままでの人生を遠くから振り返ることができる。あのときの苦難が愛と成長への肥料だったことを理解できるだろう。あの病が生き方の転換期だったのだと知るだろう。あぁ私はあのときのあの苦しみの中に愛と成長の種があったことに何故、気がつかなかったのかと悔しがることだろう。


生きている間、現実の中にある意味は見えにくいものである。


粒子一つ一つが縁となって増悪しあうものではないということが理解できないでいる。


憎しみ合うものでなく争うものでなく暴力しあうものでもなく、まして戦争という形で大勢の人々同士が殺し合いをするものではなく、解決するための試金石であり愛を奏でるためのエッセンスがあることに気がつかないだけなのだろう。
摩擦や軋轢や挫折を活用し成長すること、生命の本源を極めようとしなかっただけなのだろう。


人はどこから生まれてどこにいくのか想像がつかないでいるからだろう。


完全無欠に永遠に想いを込めて蠢いている無限の生命のことを誰が知ることだろう。


そんなことを言えば、見たことのない聞いたことのないたわごとであり、お前は現実の生活を、科学のことを、本当の人生を、神仏のことを知らない馬鹿な奴だと罵しられ笑われるか無視されるだけであろう。


魂の根源からの無数の一粒一粒、互いの結びつきにより永遠に成長していることに気づかないでいる。


生も死も一瞬の出来事であり善も悪も一粒の水滴である。


やがてその水滴たちは天に上り、ふたたび雨という形で自分の人生に戻ってくる。

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