1-23 煩悩のともしび


後ろ側にあるベッドで宇多田は眠っている。
したたかに飲んだウィスキーのせいで、ときどき胸を膨らませている。
金曜日の夜でも駅近くのMホテルには禁煙室があった。
早苗は居酒屋を出たあと宇多田と別れてもよかったのだが、もう少し相談にのってほしいという宇多田の申し出に従ってしまった。
頑丈で酒に強そうに見えた宇多田だったが、ウィスキーを飲むピッチは早かった。やはり飲みすぎてしまった。倒れるというほどではないが足元がおぼつかないのでほっておくわけにもいかず、早苗は世話をすることになってしまった。といっても宇多田を自宅まで送るというわけにもいかないので、結果的にホテルの空室を求めたのである。
早苗は立ち上がって、このMホテルの17階の部屋から池袋の夜景を見た。
窓から映る夜の街並みを眺めていると遠くまで点々と続く灯りたちが、まるで寄り添う人々のようにも見えた。その数々が人の煩悩といえなくもないと思った。
早苗もいままでに恋の一つや二つは経験したし、現在もお付き合いをしている男性もいる。ただそれだけが生活ではなく、家族があり、仕事があり、そのほかの時間もあって自分の思うようにいくことばかりではない。
グロッキーになっている宇多田は、目の前に立ちはだかる壁に阻まれて前に進めないでいる。優子が結婚していたことを受け入れがたいのである。しかしはその壁は当然あるところにあるだけの事実なので壊すことはできず、おそらく受け入れるか迂回して通り過ぎることぐらいなのかもしれない。{もし私の場合だったら、、、}と早苗は思い浮かべていた、、、、。
人は誰でもふとしたことで思いがけない方向へと進むことがある。
早苗は今夜、優子と飲むのだろうと思っていた。まさか宇多田と飲むとは思ってもみなかった。
ただ相談にのってあげるだけだという軽い気持ちのまま居酒屋からこのMホテルにいるのである。宇多田はグロッキーになってしまった。早苗は行きがかり上だったが、宇多田をこの部屋まで送ってきたのだから、もうこれでいつでも帰れるという融通さが、早苗をこの部屋に留まらせているのだった。
宇多田の様子を見ていると優子を想う一途な気持ちが伝わってくる。
だが自分がもし宇多田の立場になったとしたら、こうはならないのだろう。女の早苗にしてみれば宇多田の言動の端々に何か物足りなさを感じている。もっと他にやりようがあったろうにと。だが彼にそんなことは言わなかった。
{当の本人がわかっているのだろうし、性格なのね}と思うよりほかはないのだから。
優子が結婚しているのは現実。宇多田の気持ちを人妻の優子に伝えることは余計なことかもしれない。早苗は優子の家庭の状況をうすうすと感じている。優子の今後が、どうなるのかわからないにしても、そんな話をいまの宇多田にしてみたところでしょうがないことだった。
ひたすら一人の女性を想い続けている男の純情をなぜか懐かしく感じる早苗だった。
何杯ものウィスキーを飲み続けてグロッキーになってしまった宇多田。弱い人間だとは思えない。
むしろ少年をみるように微笑ましく感じている。それに比べたら、私と関わった男たちは、、、と考えてしまう。「あぁぁ、、、、」と早苗は窓にため息をこぼした。
それに呼応するかのように「うぅぅぅ、、、」宇多田はベッドの上で寝返りをうつ。
{窓から見える街明かりのように人には寄り添ってくれる灯火が必要なんだわ。それぞれの灯りがそれぞれの煩悩を持っていても、いや持っているからこそ寄り添う必要があるのかもしれない。求め合う灯火の意味がすれ違っていて錯覚があつたとしても灯火を求めあうのだろう。
早苗は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注いだ。
そしてベッドに仰向けになった宇多田の重い背中を抱き起した。
薄目を開けた宇多田は早苗の細い腕に反応する。
「お水でいいんでしょう?」
早苗は両膝をベッドにつきながら宇多田の背中を抱くようにして支え、右手に持ったグラスを宇多田の口へともっていく。「どうぞ」という早苗の言葉に宇多田は素直に応えた。早苗がグラスを傾け、ゆるやかに口元から水を流し込もうとしたのだが、宇多田は右手を伸ばして早苗の手にかぶせるようにしてぐいぐいと飲みだした。飲み終わると「ふぅ~~っ、」と息を吹きだしながら半目を開けた。
「、、、どう、おいしかった?もう少し飲む?」その早苗の抑揚のある声に宇多田は無言のまま首をゆっくりと振る。早苗は宇多田の背中側を支えていた左腕を離し、左膝をずらそうとしたが、いつのまにか宇多田の右手が早苗のふくらはぎ側を押さえ、じっとしている。飲んだ冷たい水が宇多田の喉の渇きを潤おし、背中側からは柔らかく張りのある感触が脳髄を熱くした。宇多田はおもむろに向き直ると両手で早苗のウェストを抱きしめた。
早苗は「ちょっと、、」と振り切るようにして持っているグラスをベッドのサイドテーブルにこつんと置いた。宇多田は待ちきれない子供のようにふたたび早苗の背中側から抱きしめた。
「まぁ、酔いつぶれていたと思っていたのに、、、」と早苗は呟きながらじっとしている。
早苗も少しほろ酔いだった。薄暗い部屋に言いようのない感覚を覚え、目の前の泥酔した男をいかようにもできそうだという思いがいままでになく大胆にさせた。
「あらあら、どうしたの、、、」と言って向き直り、大きな宇多田の上半身を小さな早苗が抱きしめた。宇多田はうっすらと目を開ける。目に映る女性が優子ではなく早苗だということはわかっている。しかし宇多田にとって優子でもあった。
、、、この甘い香り、、、。
窓の外、、、蒸し暑い夜風は煩悩という木々の葉たちを小さく揺らせていた。

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