1-14 理性と情緒


「僕らが、この「戦争を考える会」というものを立ち上げたっていうのは、なぜ戦争は起きるのか、そしてどうしたら防止できるか、そのために何をすべきなのかを考えることが目的なんだけど、たしかに犠牲者のことも含めて考えるべきだと思うね。そういう意味でいえば、戦争で泣いているのは女子供や老人だけじゃなくて、男たちもたくさんいるはずだし、戦争に反対している良識ある人たちが、圧力を受けて苦難の道を歩んでいることもあるはず」とリーダーらしい短髪の男性が誘導するように切り出した。
「戦争がなぜ起きるのかというのは、とても複雑な要素が時系列ごとに絡み合っていると思うんだ。たとえばだけど第二次世界大戦時のことをテレビのドキュメンタリーで放送していたことがあったけどそういうふうに感じた」
「今明かされる機密情報とか?というやつ?」
「その当時の民衆は結果的に言えば戦争に賛成したんだ」
「戦争は国と国の喧嘩だけど、互いの国の中の人たちの中に必ず反対している人たちが存在するという点では、個人の喧嘩とは違うね」
「その場合、戦争を遂行しようとする人たちは、戦争に反対する人たちを封じ込めようとするだろう。その際は理性でなくて圧力や国家権力を行使するという行動が多い。つまりどちらかというと理性的でなくて組織情緒的とでもいえると思う」
「だとしたら民衆は情緒的なものに煽られやすいことから、戦争に反対する人を増やそうとするには情緒的な言動をするしかないんじゃないの?戦争についての賛成派と反対派の情緒的な闘争?」
「理性的な言動で戦争に反対しようとしてもその声は情緒的にかき消されてしまうということじゃないか?」
「無謀な戦争を始めて、「贅沢は敵だ!」という状況のまま日本は敗戦になってしまた」
「戦争に反対!って言っても聞き入れない」
「戦争は殺し合いすることなんだぞ!って言ったほうがわかりやすいかも」
「もともと戦争や喧嘩という状態は理性的なものではないという結論が出せるのじゃないかと思うの」
「煽りもあるよね」
「煽られやすいといえば戦争とは状況が違うかもしれないけれど、災害のときの噂とかデマや風評が流れることがあるよね。たとえば大きな地震がどこかであるとすれば、その地震の被害が大きければ大きいほど風評とか嘘の噂があらわれるよなぁ。大正の大震災のときにも日本に住む韓国人や中国人が火をつけたり物を盗んだり、悪いことをしているとかなんとかいう嘘のうわさが広まった結果、日本人も含めて何人かが殺されたという悲惨なことがあったと本で読んだことがあったけど、もしそうだとしたら、風評とか、悪い噂というのは時には無実の人を殺すことになるのだから罪は大きいよ」
「昔、オイルショックというのがあって、いい大人が食品やトイレットペーパーや日用品の買いだめに殺到したというのをテレビで見たことがあるけど」
「あぁ、ある、ある。すごい数のおばさんやおじさんがスーパーになだれ込んでは買い込んじゃうのよね。まるでこの世からトイレットペーパーがなくなるみたいな感じで買いあさるって感じよね」
「流通はどこもだめになってはいないはずなのに世の中にあれが無くなる、これが無くなるっていう噂が大きくなって人が衝動的に動き出す。買いだめをしないでくださいって言っても聞く耳をもたないんだ」
「非常に情緒的よね」
「現実にスーパーにトイレットペーパーが無くなっていく様をみているうちに冷静な人までもがあせっちゃうことになる」
「衝動的に気持ちが動けば、いくら理性的に説いてもその言葉を信じないということか?」
「人を衝動的な気分にさせることができれば集団になってたやすく誘導させやすい。紛争なり、戦争が勃発する前には長い時間がかかるから、その経過の積み重ねの中で情緒的なものが醸成されていくとでもいうのかな?テレビとかインターネットでも、ある方向性からの意図的な情報に私たちは偏ってしまうこともありえるだろう?」
「それに自分に都合のよい情報だったら受け取りやすい。お店に並んでいる人たちを見ると、つい自分も並びたくなっちゃう?あれも衝動的だね」
「おまえの話、なんかこう、のんきに聞こえるよなぁ、、人は自分にとって感じやすい受け入れやすいことや逆に身近な危険な情報を受け取りやすいということなんだよ」

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